2019/07/07 午後24時記す

 
 2019/07/07 午後24時記す

 

プーさんのホームランダービーを朝方までやっていたため、寝不足である。時間が大切だということをつくづく思い知らされた。なぜ意地になってやめないのか。依存症や中毒の怖さを垣間見た。僕はきっと、ギャンブルにハマる。酒にもハマる。薬物になんか手を出したら一巻の終わりだ。僕は高校生になってから、ゲームを買っていない。それは、大好きだから。ハマるとわかっているからだ。罪悪感を感じながらも、やめられないということについて考えなければならない。それをいいことだとするような意見もある気がする。今の所、僕はそうは思わない。

 

 酒を飲みすぎて吐くこと、寝ていないことを自慢すること、病んでいるというアピール。なにか通ずることがあるような気がする。

 

 高校時代の知人が心を病んでいるみたいだ。もしかしたら、僕はその原因の一端なのかもしれないなんて思う。でもきっとそれは自意識過剰だ。そんなこと思われたくないだろう。でも思ってしまったものは仕方がないよな、とも思う。思ってしまったことは決して他言せず、よくないことだということを自分に言い聞かせなないといけない。でないと、無闇矢鱈に人を傷つけることになってしまう。

 

 自分の中にある悪意、差別意識に気づくということにも近いのかもしれない。僕は町を歩いている人を、気づかぬうちに。その人がダサいかダサくないか、顔の美醜まで判断しているなと思うことがある。とてもよくないことだ。最近はなるべく遠くを見て、誰のことも注視しないようにしている。はたしてそれでいいのかわからない。

 

 今日、バイト先の後輩を泣かせてしまった、ような気がしている。ような気がしている、というのは曖昧だ。彼女は今日、人前で発表しなければならない機会があった。どうやら不甲斐ない発表になったらしい。少々落ち込んでいるように見えた。僕はその発表を聞いた人から、彼女の話し方が平坦だったということを聞いた。彼女の発表はその後もあったため、参考にと思い、そのことを伝えると彼女は俯いた。

 

 僕は驚いた。申し訳ないことをしてしまった。次の発表が良くなればという思いはもちろんあったのだが、もう少し柔らかい言い方をすることができたはずである。僕はなぜそれをオブラートに包まずに伝えてしまったのだろう。もしかしたら、自分の中に彼女を傷つけようという気持ちがあったのではないか。そうだとしたら怖い。単純に、僕だったらそう言われてもなんとも思わないからかもしれない。相手の気持ちを考えるということができていなかった。申し訳ないことをした。

 

 帰り際、彼女に謝罪すると、「教えてくれてありがとうございました。謝らなくてもいいのに」と言ってくれた。いい人だなと思った。

 

 今日は早く寝て、明日は少し早く起きよう。明日は散髪だ。もしかしたらライブも観れるかもしれない。

 

2019/06/15 午前2時記す

 

 ようやく中間テストが終わった。最終日に関していえば、前日まで全く勉強しないといういい向き合い方ができた。どの教科も楽勝でこなしたい。昨日も言ったけれど、講義の中である程度理解しておけばいいのだ。結局それがもっとも効率がよく、時間を無駄にしない。それに、授業をしている先生たちの気分も少しは良くなるだろう。

 当たり前のように皆、講義中にスマホを弄っている。講義が単につまらないのか、それとも集団で依存症に罹患してしまっているのか、そのどちらともであろう。

 テスト前、MくんがEくんにプリントを写させてもらっていた。ダサいなあと思った。自分の駄目さを皆に見られるなんて僕にはできない。そんなこともうどうでもいい段階なのだろう。末期じゃん、なんて思った。けれど、他の人だってプリントを見せてもらっている。彼らは、前日までにLINEやら隣の席の人にやらに見せてもらっているのだ。彼らのことをズルいなあと思うけれど、ダサいとも思わない。

 Kくんと彼らの差は何か。それは見せてくれる人がいない、ということだ。気軽に見せてもらえるような関係を誰とも築けていないということ。挙げ句の果てに、テスト開始直前になってどうしようもなくなりクラスの中では一番ダサいEくんに見せてもらうこと。それがダサいのだ。Eくんを選ぶというセンスはいいと思う。

 きっとこんなに気にしているのは僕だけなのだろう。それは僕もそうなる可能性があったから。僕も同じで、誰からもプリントを見せてもらえない。いや、見せてもらいたくなどない。誰かに頼りたくない。よく言えば真面目なのだ。しかし、それが原因であの子と別れたのだし、うまく人間関係が築けていないのだろう。

 要するに、誰かに頼ることが苦手なのだ。誘うことも。頼って、頼られて人間の関係はできている。それができる相手とできない相手がいる。その違いはなんだろう。

 

2019/06/13 午前3時記す

 

 中途半端に真面目に生きてきた。根底にあるのは、怒られたくないという気持ちだろう。誰かの怒りが怖い。その怒りが自分に向けられたものではないとしても。

 テスト期間だ。テスト期間はいつも部屋が汚くなる。食事もコンビニや外食が多くなる。勉強する時間を確保しなければという言い訳にかこつけて、不摂生な生活を送る。それに、運動や読書、日記を書くことさえも止まる。テスト期間を非日常だと捉えている。

 大学のテストごときを、非日常だと思っていてはダメだ。非日常はもっと素敵なことのためにとっておかなくては。例えば、クラブに行って踊る時間、気になるあの子と過ごす時間、一人でポップコーンを食べながら映画を観る時間。どちらの方が大切かなんて考えなくてもわかる。

 勉強は生活の一部にしてしまうのが一番だ。テスト前日に慌ているようではダメだ。一周回って、真面目なことを言っているような気がする。夏休みの最後に慌てて宿題をやるやつと、始まりの一週間ぐらいで計画的に終わらせて、涼しい顔で残りの日々を楽しむやつのどちらがダサいのだろう。

 しょうもないことをダラダラと書いたが、要するに、講義をスマホをいじらずに真面目に聞けばいいのだという話である。結局、そちらの方が時間を無駄にせずにすむというだけの話だ。にもかかわらず、いつの間にかtwitterを眺めている。完全に依存している。

 スマホを触る時間を減らせば、より長く眠れる。いい音楽をたくさん聞ける。いい映画を、ドラマをたくさんみることができる。本当はそんなことわかっている、のかもしれない。それは果たしてわかっているのか。頭と心のどちらかがわかっていないような気がする。

 これは少々ややこしい問題だ。例えば、スマホで嫌いな人のtweetを眺める時間があれば、まとめサイトを泳ぐ時間があれば、さくらももこのエッセイを読んだ方がいいのは明確だ。少なくとも僕にとっては。言うまでもなく、代替可能だ。有意義だと思っている行動よりも、無駄だと思っている行動を人は選んでしまう。選んですらいないのかもしれない。何かにとらわれるように、取りされ割れるように、無駄な行動を選ばされてしまう、という表現なら少しはマシだろうか。

 テスト期間中にもかかわらず、こうやって初めて日記を書いているのは、抵抗だ。依存症に対する治療の一環だ。しかし睡眠は足りそうにない。授業中に、twitterを見ていたせいだ。そしてそこで目にしたものの一つも覚えていない。

2019/06/11 午前1時記す

 

 無駄なことに時間を使っていることが多い。見なくてもいいtwitterを開き、あまつさえフォローすらしていない、したくない知人のつぶやきを眺めている。教室にいるダサい人がなぜダサいのか、なぜ彼をダサいと思ってしまうのか、そう思うことをやめたほうがいいのかと自問自答している。
 
 そんなことをしている暇があれば、音楽を聞いたほうがいい。何か英単語を一つでも覚えたほうがいい。何かいい文章を読んだほうがいい。何か気の利いたジョークを一つでも考えたほうがいい。面白かった本の、映画の感想を考えたほうがいい。
 
 だなんて思ってはいるものの難しい。できればそうしている。それが僕の弱さだ。昔からそうだ。こんな愚痴ばかりの日記を書きたいわけではない。どうせ愚痴を書くならば面白く書かなければ。笑いに返還しなければ。文字通り変換を間違えた。この文字通りの使い方はあっているのだろうか。

 

 Kという友人は、怒りを、そして悩みを笑いに変換するのが上手い。彼はそれを詐術だと言った。誰を騙しているのだろう。俺なのか、それとも自分自身なのか。

 考えてみると、僕の好きな文筆家は、ラジオパーソナリティは皆、怒りや悩みをうまく笑いに変換して伝えてくれる人たちだ。怒りを変換するのが上手いのは大泉洋東村アキコ、そして朝井リョウだ。悩みを変換するのが上手いのが、オードリー若林や星野源だ。リリーフランキー菊地成孔はちょっと違うところにいる。彼らの文章をたくさん読み、話をたくさん聞いてきたのに、僕はこれまでなぜそれに気づいていなかったのだろう。ただ読んでいるだけ、ただ聞いているだけだったのだ。こんなことではOronoに怒られる。

 

 面白い人間になりたい。五年ほど前、「あなたはつまらない人間だ」とある人に言われた。落ち込んだ僕は、それ以来、面白い人間になろうと努力をしてきたつもりだった。つもり、だっただけだ。僕はずっと受動的な人間だったのだ。自分からは何もしていない。チンケなプライドや自意識をいつも守ろうとしている。笑われることをダサいと思われることを浅いやつだと思われることを怖がっている。それが一番ダサいのに。「PKを外せるのはPKを蹴る勇気のあるものだけだ」と言ったのは誰だったか。コナンで読んだ誰かの名言をしばらく忘れていたようだ。

 

 文章のスタイルを変えてみるべきだ。明日やってみよう。これではダサすぎる。

 

 

2019/06/03 午前5時記す

 

 随分久しぶりに日記を書いている。まあ日記とはそんなものだ。

 15時ぐらい帰宅して、22時ぐらいまで昼寝していた。果たして昼寝と言えるのかは怪しいけれど。寝て起きて、何時間ぐらいで人は眠くなるんだろう。いつでもどこでもすぐに寝られる人が羨ましい。夜寝て、朝起きなければという常識に縛られているような気がする。

 寝すぎても、寝足りなくても一日中、頭痛に悩まされてしまう。睡眠は全く関係なく、単純に低気圧のせいなのかもしれない。自分にとってちょうどいい睡眠時間をまだわかっていない。記録をつけてみようと思う。

 移動中の電車の中で、独り言をつぶやいている人や、ずっと笑っている人を見かけることが最近多い。僕は何をつぶやいているんだろうと、何が面白くて笑っているのだろうかと気になってしまい、ついその人を見てしまう。周りの人は、全く気にしていないような気がする。まるでその人がいないかのように。いや、誰のことも気にしていないのかもしれない。

 僕が気にしすぎなのか。Adidasの三本線のトラックパンツにナイキのAirMaxを履いている人、足を広げて座るおじさん、満員電車での席の争い、口を開けて寝ているお姉さん。いろんなことが気になる。その人たちのことを見てしまう。誰かの視線を避けるために、誰かに視線を向けないために皆、スマホを見ているのかもしれない。

ただただエモいだけ

2019/05/01 午前2時記す

 クラブでオールしたのち映画館でコナンの新作を見て帰宅。生活リズムを狂わさないために15時ぐらいまでなんとか起きてそこから寝たものの、妹からの電話で24時に起きた。本来なら、5時ぐらいに起きる予定だった。まだ疲れが抜けていないのか、頭がぼうっとしている。

 クラブやライブに行ったことのない友人と二人で22時ぐらいに入場した。デイタイムに行ったことはあったが、朝までクラブで過ごしたのは初めてだ。空虚な場所だなと思った。しかしそれでいいのだろう。タバコを咥えて踊り狂う若者たち。kyneのイラストがプリントされたオーバーサイズの服。YouTubeにアップされている有名な曲が演奏されるときにだけ皆が掲げるスマホ。いくつかのスマホで転倒しているライト。そのスマホのせいでステージ上で飛び跳ねるラッパーがいまいち見えないこと。表層だ。浅さしかない。その奥に大きな物語はもとより、データベースすらないのではないだろうか。ただ盛り上がりたいだけ。ただなんとなくお洒落に見られたいだけ。簡単だ。歌詞を覚えればいい。フォロワーの多いイラストレーターの(誰でも書けそうな)イラストがプリントされた服を着ればいい。歴史なんか気にしている人がいるのだろうか。いや、気にしていなくても、実はそこに歴史があるのだ。気づけていないだけだ。僕が昨日クラブで見たあらゆるファッションの中に、聴いたあらゆる音楽の中に歴史は存在している。

 最近よく言っていることだけれど、素人の、つまり普通の(浅い)人たちの感覚に一定の信頼をおいてもいいのではないだろうか。ほんの一瞬の判断でいいなと思う服を、乗れる音楽を判断している。その一瞬に、流行だとか、誰かからどう思われるかなどという気持ちは存在していないと思う。そうであってほしいと思っているだけかもしれないけれど。僕は、僕自身の経験からそう思っている。瞬間的にほしいと思って買ったときには、いい音楽だなと思って体を揺らすときに、そんな気持ちは存在しない。むしろ、この服を買おうか迷っているとき、Hands Upと言われて手をあげるか悩んでいるときは、他者からの視線への意識が存在している。要するに、中途半端な浅さが嫌いだということだろう。表層と深層を自由自在に行ったり来たりできるようになることは重要である。

 劇場版のコナンを見た。よりアクションが過激になり、物語としてはめちゃくちゃになっている。そしてそれをファンは受け入れている。そもそも劇場版のコナンはアクションを笑いながら見るものだという奇妙な現象が起こっている。おそらく製作者の側もそれを意識しながら作っている。あまりにも物語としては破綻しているからだ。

 フェティッシュ、萌え、すなわちエモさだけの作品である。この三つはほぼ同義で、時代によってどの言葉がよく使われるかが異なる。強いて言えば、時代が進むにつれ、つまりエモいになるにつれ、使う層が広がった。言い換えれば、(その世代では)より一般的に使われるようになった。例えば、萌えという言葉は、オタクだけが使う言葉だった。その言葉を使ってるやつはキモいという認識が、少なくとも僕の周りではあった。しかし、エモいに対してそのような認識はない。ヤンキーからオタクまで誰もが使っている。ちなみに萌えを逆から読むとエモである。だからなんだ、と簡単に切り捨ててはならない。まだその理由をうまく説明はできないが、直感的にそう思う。話を戻す。

 以下、フェティッシュ/萌え/エモさを感じた場面を列記していく。

 園子の脚がアップになる場面。これまでの劇場版コナンでこんなにわかりやすく性的なフェティッシュを感じさせる作品はあっただろうか。線の太さが(それが悪いということではなく)気になったのも初めてかもしれない。まるで近年の劇場版ドラえもんのようだった。

 園子がバンダナを外し、髪をおろしている場面。好きな人の前で、誰にも見せない姿を(意図せずではあるが)見せる。今作でフューチャリングされているのは、キッドでも京極さんでもコナンでも蘭でもなく、園子だ。コナンに関しては、もはやいてもいなくてもいい。この意味でキッドが蘭に顎クイしているポスターはミスリーディングである。一応その設定はあったが、ふりかけのようなものだ。

 キッドが京極さんと対決する際に、ニヤリと笑う場面。これは前作で、安室さんがトンネルの壁を車で走る際に、ニヤリと笑う場面に通ずる。このニヤリは、狂気を感じさせるニヤリである。死を予感させる場面で、それをむしろ享楽し笑う登場人物に萌えるというのは割とあるのだと思う。実際に誰かに聞いてみようと思う。

 コナンがビルから落下し、ハングライダーに乗ったキッドが救う場面。『天空の難破船』からの流用である。これまでの劇場版コナンでこんな場面があったなというのが多い。前述のキッドのニヤリもそうだ。この場面で、コナンが落下する必要性は全くない。なぜ落下にキッドが気づいたのかもわからない。とりあえずこの場面を入れておこう、ということだろう。キッドが警官に撃たれ負傷するという場面も物語を進める上で必要なかった。単純に、流れる血を抑え苦しむキッドを見せたかったというだけだ。

 まだまだあるがこれぐらいで切り上げておく。先にこんな場面を入れたい、この場面があれば萌えてくれるだろうというのが決まっていて、それが全て組み込まれるように物語が作られているような気がする。そう考えると、物語が破綻しているのも頷ける。まるでPVのような、パッチワークの作品だ。もはやそれに文句を言っても仕方がないのだ。いつからコナンが物語はまるで無視の、ただフェティッシュ/萌え/エモさを詰め込んだ映画になってしまったのか振り替えなければと思う。もしかしたら『君の名は。』よりも前なのかもしれない。

嘘を上手くつけるように

2019/04/28 午前2時記す

 昨日は少々鬱気味だと書いた。けれども今すこぶる気分がいい。情緒不安定である。生活の中でちょっといいことがあると、いい一日だったなと思ってしまう。その逆もそうだ。我ながら簡単だなと思う。

 久しぶりに角打ちに行った。今まで、一緒に行く幼馴染が主役になるように、僕が邪魔しないように振舞っていた。というのは言い訳で、単純に知らない人と話すのが怖かっただけである。そう考えると慣れただけかもしれない。常連さん達とも顔馴染みになった。店長とも、店員のTさんとも話せるようになった。中でも数回しか会ったことのないおじさんとはあまり話せなかった。物理的な距離が遠かったということもあるのかもしれない。おじさんとの距離の取り方は未だわからない。おそらく向こうもそうだろう。息子としては年をとりすぎているし、後輩としては若すぎる。どう接していいのかわかりにく年頃だと思われているのではないかと思う。30代から40代とうまくコミュニケーションをとることが今後の目標だ。なんとなく自意識の高そうなおじさんたちとどうコミュニケーションを取るのか。自分の自意識が高いからこそ、敏感に察知してしまうのだろう。いかに自意識をコントロールするのか。相手の自意識をいかに意識させないか。自意識を意識することなく会話を成立させること。自意識を意識することがバカらしいのだとお互いに思うこと、そんなコミュニケーションが取りたい。

 幼馴染が、なんとなくだけれど、いつもよりも窮屈そうに振舞っていた。勘違いなら勘違いでいい、というか勘違いのほうがいい。しかし僕が感じたこの違和感の正体は一体なんなのだろうか。おそらく、自分をどれだけ出すのかということだろう。仮面というか、猫というか。本当は思っていることを言ってないな、そんなこと全く思っていないなということを、僕はわかる、と思っている。わかっていないのかもしれない。でも恐らくそうだ。割と僕が思っていることを言うほうだ。

 Tさんが二次会で、男は嘘を着くのが苦手だという話をしていた。嘘をつくときに視線がずれると。菊地成孔が、一般人の批評眼が最も優れているということをよく言う。例えばバイト先の高校生の言った、踵を中心に歩いている人はダサいという言葉。それに通ずることだと思った。確かによく言われることではある。しかしながら色々な経験をしてきたであろうTさんの言葉には重みがあった。少々話がずれたが、要するに僕は基本的には嘘をつかないようにしているということだ。なぜなら嘘をついたことをすぐに忘れてしまうから。整合性がすぐに取れなくなってしまう。

 それに対して、幼馴染は嘘をつくのがうまい、と言っていいだろう。自分に対してもその嘘をついているように思う。その嘘に次第に苦しくなってきているのではないか。いい加減大人だ。若いというだけでちやほやされる時期は、すぐに終わる。若いから恋愛についての話を聞かれる。その場にいる他の大人はどんな気持ちで聞いていたのだろうか。そのわかりやすい嘘を。嘘は言い過ぎなのかもしれない。殻を、という表現のほうがより正しいのだろうか。まだうまく言語化できていない。

 いつまで子供のままでいるのか。恋をせよという圧力。恋愛の話をすれば皆が簡単に盛り上がれるから。色々な難しさがある。単純な話ではない。僕は大人になりたい。恋をしたいと思っている。それぞれがそれぞれの時期で前に進めばいい。いや、何が前なのかもわからない。別にそれでもいい、それで幸せなのならば。ずっとアニメを見て、画面の中のイケメンを見て終わる一生で幸せでいいのならば。簡単に言えば、僕はそれよりも誰かと手を繋ぐ方がずっと大切なことだと思っているのだと思う。これからそれは古い考え方となっていくのだろうか。誰かと手を繋ぐことは、少数の人間の特権だとされていくのか。そしてそれがリア充、ウェイ系という蔑称で呼ばれていくのか。僕はそれに抵抗したい。酔った頭で今僕はそう思っている。明日目が覚めるともう、立場を変えているのかもしれない。それでも、今思っていることを書き記すことが大事だと思っている。