アベンジャーズを観ての所感

2019/04/27 午前2時記す

 なんとなく鬱々とした気分だ。昨日まで軽い躁状態だった気がする。別段、うつ病というわけではない、と思う。双極性うんちゃらというわけでもない。うつ病ではなくても、鬱々とした気分の日はある。ファッションで鬱を気取る輩もいる。面倒だなあと思う。それはいったいなんなのだろう。ただただ構って欲しいだけなのか。そんな単純な話なのか。

 簡単な言葉でまとめてしまえば、承認欲求だろう。あんまり寝てないアピールも、飲み会で記憶を飛ばして吐いたことを自慢げに語ることも、僕が日記を書いたらこうやってアップしていることもそうなのかもしれない。なぜ、むしろそれが逆の効果を生むとわからないのか。不思議だ。承認欲求をひけらかせば、承認されづらい、ように思う。それに気がついていないのか。割とみんな、そんなに馬鹿ではないと思う。それが疎まれることがわかっていて、それでも病んでるツイートをしないと自分を保っていられないのか。いったいどういうことなのだろう。

 アベンジャーズを見た。可もなく不可もなく、といった映画だった。これまでに張った伏線の回収、全てのキャラクターの見せ場を作ること、次のマーベル作品につなげること、そういった大人の事情のようなものが完璧に調整されていた。特にトニースタークとキャプテン・アメリカについてはそうだ。ああすることがこれまでの総括、これからへとつなげることを考えた上でベストだろう。あの二人が主人公のだったのだ。そしてこれからのアベンジャーズを担うのはスパイダーマンとサムという若い世代だということを示しもした。要するに、世代継承の話である。その他はまあ盛り上げるための要素にすぎない。アガる場面が詰め込まれていた。霜降り明星の漫才のように。ただエモいだけ。それだけで終わってはダメだ。まずは構造を抜き取ること。それを菊地成孔に教わり、自分のものにしようとしている最中である。

 いまいち乗り切れなかった原因はいったい何なのだろうか。まずはキャプテンマーベルの扱いが雑なこと。パワーバランスをうまく調整するにはああするしかなかったのだろうけれど、つい先日『キャプテン・マーベル』を見た側からするとややスカされたように思ってしまう。タイムトラベルの設定も雑だった。結局、なぜあれでよかったのかわからない。一応説明のようなものがあるが、全く理にかなっていないように思われた。SFに詳しい友人にあれは筋が通っていたのか聞いてみようと思う。

 『ガーディアンズ・ギャラクシー』や『アントマン』のようにユーモアが散りばめられていたのはよかった。しかし、なぜキャプテンマーベルを笑わせないのか。あれではただの強いけれどツンケンとた女扱いである。『キャプテン。マーベル』のようにフューリーと冗談で笑っているダンヴァースが見たかった。まあしかし、キャプテンアメリカとトニー・スターク二人の物語で、残りは助演なのだと思えばわからなくはない。とりあえず観てすぐの感想はこんな感じだ。きちんと映画を見たら感想を書くこと、それも22歳の目標だ。

 

iPhoneから少し離れてみて

2019/04/23 午前2時記す

 二日連続でストレッチと筋トレをできた。よく考えると初めてのことかもしれない。しかし、そのせいで睡眠時間が削られている。そもそもそれはバイトのせいだから仕方がない。よく考えると、二日連続で丁寧なストレッチや筋トレが続いたのは初めてかもしれない。昔から楽をしようとしがちで、何かしらの理由をかこつけて途中でやめてしまう。そして、それこそがこれまでの僕を表しているように思う。どういうことか。

 中学生の頃、僕は運動部に所属していた。毎日、初めに筋トレがあったけれど、一、二回ごまかしていた。わざと少し遅く行って筋トレから逃れたりもしていた。ランニングもそうだ。少しでも脇腹が痛くなると歩いた。

 一週間として何かが続いたことがない。勉強でもそうだ。参考書を買ったらそれだけで満足してしまう。積ん読している本の、まだ聞いていない音楽の、映画の亡霊たちが僕にまとわりついているような感覚がある。ある意味、これは幸せなことなのかもしれない。楽しいことが、面白いことが溢れすぎているのだ。選択肢があまりに多すぎて、僕は、僕たちはtwitterinstagramといったSNSに逃れるのかもしれない。そんなことは色んなところで言われているのだろう。けれどもようやく、実感として分かってきたような気がする。時間がかかることを引き受けていかなければ。一見、コスパが悪いように見えるかもしれないけれど、それが一番の近道なのだ。これも紋切り型の言葉である。
 
 誰か憧れている人の言葉を真似してしまうということがある。背伸びしている感覚。あるいは、言葉だけで実質が追いついていないなというような。でも、いつか追いつくものなのだと思う。忘れてさえいなければ。追いかけてさえいれば。僕は成熟したい。憧れの大人がいる。彼らから勝手に受け取ったと思っているものを、自分なりに消化し、そして越えていかなければならない。なんだか曖昧なことを言っているような気がする。今日は試しにラジオを聴きながら書いているので仕方がない。言葉を聴きながら、言葉を紡ぐのは難しいのかもしれない。やはり、歌の入っていないBGMがいい気がする。本を読みながら、文章を書きながら、勉強しながらラジオや音楽を人は聞けるのか。その時に脳の中がどうなっているのか気になる。以下、記録。

 昼食はチキンドナケバブ、夕食にサブウェイのターキーブレストベーコンエッグ。サブウェイの店員の態度が悪くてやや落ち込んだ。夜食に、塩ダレのかかった豚肉が麦飯の上にかかったものと牛乳寒天。出費が多すぎる。明日は肉豆腐を作ってみようと思う。ドンキに行けば豆腐は10円で売っている。
 
 移動中に菊地成孔『服はなぜ音楽を必要とするのか』を途中まで読む。料理に対する饒舌さにも驚いたが、ファッションに対する饒舌さにも驚いている。ブランドの名前が全くわからない。知っているつもりだった。ファッションショーを見てみたいと思った。何度かBSで放送しているのをみたことがある。面白かった。懐かしい。ノスタルジーをなぜか感じる。

 twitterでファッション情報を教えてくれるアカウントをフォローしているだけで分かっているつもりになっている。なぜ、それがしょうもないことというわかりきったことに気がついていなかったのか。問題はそこではないのだけれど。歩く速度と、音楽がズレること。ズレとHIPHOP。明日は対談の部分を読む。

抱負、なんて言ったら春日に怒られる

2019/04/22 午前2時記す

 22歳になった。いつもおめでとう言ってくれていた幼馴染から連絡はなかった。寂しいものがある。ショックだったと次会う時に伝えてもいいのだろうか。それとも気にしていない感じのほうがいいだろうか。正直に言ったほうがいいのかどうか、いやはや難しい。相手を傷つけまいという姿勢が、余計に傷つけてしまうということがある。何度も僕はそれで失敗してきた。

 同級生の多くが就職活動を始める、つまり彼らにとってはモラトリアム最後の年だ。同級生と書いたが、僕と親しい同級生の多くは院に行くか、僕と同じく一浪なので就職しない。だから、就職に対して焦りというものが全くない。

 祖父母に会いに行った。部屋を整理しているときに見つけたと言って、僕が幼かった頃の写真を見せてくれた。整理、と言ったのが気にかかった。写真はいいな、と思った。自分が忘れていることを記憶しておいてくれる。自分が幼かった頃の記憶などない。それを少しは思い出すきっかけになる。記憶を捏造してしまうことはあるかもしれないけれど。

 祖父母は僕が幼かった頃の話をしてくれた。僕が生まれた日は雨が降っていて、夜には止んでいたらしい。母に隠れて近所のスーパーマーケットまでソフトクリームを食べに連れて行ってくれた。公園の遊具でうまく遊べなくて不安だったらしい。僕が幼かった頃のいろんな話をしてくれた。よく覚えているものだ。

 僕は祖父母に孝行できているのだろうか。皆、誰しも自分を不孝ものだと思うのではないだろうか。きっとそういうものだろう。

 自分の進みたい道に進めと、何度も何度も言われた。手に職をつけるために、叔母を大学へ行かせなかったことを、そのことで今も恨まれているからと。非常に難しい話だと思う。祖母は祖母で、叔母のためを思ってそうしたのだ。

 当然、社会に出ている時間は親の方が長い。子供は、社会の大変さを分かっていない。もれなく僕もそうだ。安定した暮らしを親は子供に求めるだろう。けれども、時代性をわかっているのは恐らく子供の方だろう。スマホもうまく使えない人に、偉そうなことを言われてたまるかなどという反発が容易に想像できる。叔母が選択を迫られた当時のことはわからない。まだ時代が変化する速度は今に比べると遅かっただろう。だとすれば、祖母のアドバイスの有効性は割と大きかったのかもしれない。

 社会に出て得た経験と、時代性を読み取る力の相克。もちろん社会に出たからといって、視野が広いとは限らない。どんな職業なのか、それによるところは大きいだろう。

 この問題は、母と妹にも再び起こった。脈々とちは流れている。妹が明らかにそれは怪しいだろうという選択肢を提示してきたことがあった。実際は違うけれど、例えば、大切な人が、怪しげな新興宗教に入会したいと言われたらこんな気持ちになるのだろうと僕は思った。簡単な話ではない。伊坂幸太郎浅野いにおの作品の中に、このテーマが扱われているものがある。

 親がどこまで干渉するのか。子供がきちんとした判断力をどうやって獲得するのか。かつて自分が持っていた問題意識を思い出した。

 そろそろ眠くなってきたので切り上げたいが、最後に22歳の抱負のようなものを記しておこうと思う。そんなことを言うと春日に怒られそうだけれど。箇条書きで書く。

1 スマホを触らない。

 常にスマホがないと不安だと言う現代人の病に僕ももれなく罹患している。いやむしろ薬物中毒と言った方がいいのか。どちらでもいい。とにかくスマホはドラッグだ。スマホをいじっている時間ほど無駄な時間はない。その時間があれば、何冊の本が何本の映画が見れただろう。どれだけの音楽が聴けただろう。どれだけの文章が書けただろう。起床後にその日に聴くラジオを確認する際、移動中に聴く音楽の選択、そのぐらいのことしか実際はスマホを使う必要はない。しかし、気がつくとSNSを見てしまっている。スマホからの卒業がまず一つ目の抱負だ。

2 毎日、日記をつける。そして写真も撮る。

 日記が長続きしたことがない。しかし書くという行為はすごく楽しい。こんなことを考えていたのかと新たな発見がある。無意識が現れるような感覚になる。誰かと話すときのネタにもなるだろう。日々考えていることについて、単純に頭の中が整理もされる。そして、後で見返す楽しみが増える。写真もそうだ。人の写真を撮ろうと思う。

3 体を動かす。

 あまりに姿勢が悪いし、体力が低下している。今日、ゆっくり時間をかけてストレッチと、筋トレをしてみた。こんなに汗をかくものなのだと驚いた。身体性というものを獲得したい。

 まだあるのだろうけれど、今思い浮かぶのはこれくらいだ。また思いついたら追加しようと思う。

 ANNでゲストの弘中綾香に、目標はないのかと問われて、若林と春日は返答に窮した。でも若林はきっと、目標を持っていると思う。春日は多分、本当に持っていないと思う。若林は、その目標をいうのが恥ずかしかったんじゃないかな。あまりにもまっすぐ弘中綾香に質問されて。僕にも目標のようなものはある。でも、まっすぐ聞かれた時にうまく返せるかというと、自信がない。なんとなく考えてもいいのかもしれない。

バイトの愚痴、そして実存

2019/04/14 午前3時記す

 昼間はバイト、帰宅後は部屋の片付けをした。昼食は、吉野家豚丼。素直に牛丼にしておけばよかったと後悔。部屋を片付けると、少しだけ前向きな気持ちになる。精神が荒んでいるときは、得てして部屋も汚くなるものだ。

 塾講師のバイトをしている。運営がかなりバイトの大学生に任されているという状況である。例えば、生徒へのガイダンスのパワーポイントやアンケート作りなど。正社員が三人いるが二人は新卒で入社したばかりでまだ戦力にはならない。僕は、バイト先の方針に違和感を抱いている。生徒を数値で見ているような気がしてならない。それに、せいぜい大学生が、運営の大部分を担うことで、何か大きなことをしていると勘違いをしているように思う。
 他の校舎と成績を比較して何になるというのだろう。他の校舎よりも全体としての成績が良かったとして、はたして生徒は喜ぶだろうか。いや、喜ぶのは職員と勘違いをしているアルバイトだけである。パソコンばかり見て、今、目の前にいる生徒とは話さない。それでいいのだろうか。わからない。それが社会に出るということなのだろうか。それが折り合いをつけていくということなのだろうか。生徒数があまりに多いため、すべての生徒と深く関わることには無理がある。しかし、それにしても僕はごく少数の生徒としか関わっていない。これは僕の課題だ。

 僕にできることは何か。僕がしなければならないことは何か。いくつか挙げてみよう。勉強するとはどういうことかを教えること。勉強が楽しいと教えること。対してただの受験勉強はつまらないと教えること。学問に対する態度を教えること。受験勉強には競争の側面があるように思えるが、本当の勉強はそうではないと教えること。大学生の勉強はもっと楽しく、面白いのだと教えること。そしてその面白さに自分で気づかせること。少しでも多くの選択肢を見つけ出してあげること。生徒を金づるにしないこと。すなわち拝金主義から引き離すこと。選択する権利はあなたが持っているのだと伝えること。すなわち塾と生徒は対等な関係だと伝えること。たくさん本を読めと、たくさん映画を見ろと、あらゆる文化に触れてくれと伝えること。

 これらは塾にとって利益を生み出さないと思う。非効率であるし、単純に収益が少なくなる。その態度は疎まれるかもしれない。それでもなぜ僕はそこでのアルバイトを辞めないのか。それは、ほんの数人の親しい生徒のためだ。そしてかつての自分のためだ。勉強は楽しいと教えて欲しかった。もっと声をかけてくれるお節介な先生がいれば、何か変わっていたのかもしれない。最近たるんでないかと叱って欲しかった。当然、だらしなかった僕が悪いのだ。それは間違いない。でもなあ、と思ってしまう。あの時の、何もしていないくせに、人を下に見ている高校生だった自分の幽霊にずっと囚われているのだ。

 僕が言ったことが、彼らの人生を変えるというのはあまりにも尊大だ。ただ、あの頃の自分がかけて欲しかった言葉をかけること。それで一つぐらいは並行世界の選択肢が増えるのではないか。それぐらいは思っていいのではないだろうか。それは僕がよく、お節介な先生がいた並行世界の自分のことを想像するからだ。でもそんな僕は存在しない。

 稼ぎの悪いアルバイトを辞めないのは、きっとそういう実存的な理由からだ。それでいいのか、つまり公私混同でもいいのか、もっとよく考えなければ。

Oronoと朝井リョウ、ラジオでたまに起きる惑星直列について

2019/04/11 午前3時記す

 先日、日記を書こうとした矢先に電話がかかってきて、結局夜を徹して話し込んでしまい、書けなかった。徹夜の疲れでそこから数日書けなかった。今日もすごく眠いけれど、明日は少し遅く起きても大丈夫なので、この数日間であったことを書けるうちに書いておく。順番は前後するかもしれないが。

 先週放送された星野源のANNをタイムフリーでようやく聞けた。SuperoganismのOronoがゲストとして出演していた。日本語と英語が飛び交う、深夜ラジオとしては恐らく異例の、すごく面白い回だった。Oronoの出番が終わった後、星野源も言っていたけれど、忖度せずに、正直に思ったことを話していた。その姿を見て、すぐにうまく言語化できる星野源もさすがである。それは、僕がここ数日ずっと考えていたことだった。

 「お互いに正直に思っていることをただただ言うけれど、両方が自立しているから、傷つくことはない。意見が違ったら面白いでいいし、同じだったらアツいなと盛り上がればいい」

 星野源はこんな風なことを言っていた。リスナーからOronoへの手紙の中に、"Oronoちゃん"という記述があった。全体的にはOronoの生き方が好きです、という好意的な内容だった。Oronoは躊躇することなく、すぐさまちゃんづけは嫌だと言った。なかなか言えることではない。言うにしても笑いにするなりなんなりと上手く婉曲させながら言うものだ。Oronoはただただ正直に嫌だと言った。そういうのが嫌だから日本を出たのだと。別段、そのリスナーを傷つけるような言い方でもなかった。むしろさりげなくフォローも入れていた。それだけではない。Oronoのことが、そしてSuperoganismのことが好きだというそのリスナーに対して、何が生きがいなのかと問うたのだ。ただ好きで終わってほしくないと、それを超えるところ、つまり、Oronoよりもすごい人になるぐらいに思って欲しいと、彼女はそう言った。そして話しをしよう、DMを送ってくれとも。そんなことを言うアーティストを初めて見た(実際には、聞いた、が正しい。しかしそのような日本語はない、と思う)。

 褒められるのが嬉しくない、もといどう対応していいかわからないということがある。それこそまたラジオの話になるが、先週の朝井リョウ高橋みなみのヨブンノコトの中で似たような話題が出た。

 朝井リョウフリーアナウンサーの宇垣美里と本のフェスで対談した際に、「褒められる時間」というスライドを作成し、宇垣美里が褒めに入った途端にそれを表示した、という話しをしていた。朝井リョウの場合はナナメからの(いつになったら朝井リョウに夕暮れは来るのか)ひねくれた対応の仕方である。相手が宇垣美里だったから恐らく大丈夫だったとは思う(それを見越してやった可能性もある)。それに対して、Oronoは真正面から相手に対峙しているし、対話しようとしている。朝井リョウはある意味、対話、もといコミュニケーションの放棄である。それが悪いというわけではない。僕は二人の姿勢から自分の行動を反省している。

 では一見相反するように思えるOronoと朝井リョウの共通点は何か。それは意思表示をしているということだ。嫌なことを嫌なのだと。褒められるのは嬉しいけれどそれだけであると。Oronoはそれによって自分が頑張ろうと思うことはないと言っていた。朝井リョウはお互いに褒め合うという予定調和が嫌なのだという話をしていた。その言葉は、その行動は相手を傷つけうる。僕はそれが怖くて、自分の思ったことを言えない。カラオケに行っても自分の好きな歌を歌わない。その場に合わせた選曲をしてしまう。おじさんたちと行った時は、前日にその年代のヒットソングのプレイリストをSpotifyで作ったりした(昭和の名曲はカバーばかりで本人の曲が少ない、それこそ再発見にはいい機会なのにもったいないなと思う)。二人とも自分の言葉が相手を傷つけるという覚悟を持っているのだ。だからOronoの場合は、英語を交えながら、相手を批判するというわけではなく、私はこう思う、ということを懇切丁寧に説明した。朝井リョウの場合は、笑いに変えて(脱臼させて)違和感を表すという方法を使っていた。

 僕はそれを避けている。伝わらないと思っている。でもそんなことはないのではないかと思った。自分の立場を表明することはできるのだ、それは相手を傷つけるかもしれないが、それを自覚すること、なるべく伝わる言い方を模索することで、その傷の痛みは和らぐし、痛みがひくまでの時間は短くなり、あまつさえ筋力がアップしているなんてこともあるのではないかと考えさせられた。

 やっぱりラジオは素晴らしい。惑星直列のようなことが起きる。いや、単に僕自身が起こっているように解釈しているだけか。

いつから自分のことをキムタクだと勘違いしているのだ

2019/04/07 午前2時記す

 今日はやりたかったことの半分もできていない。明日、緊張する予定が入ってしまったからだ。ほとんど会ったこともない人たちとボーリング、あまつさえカラオケにまで行かなければならなくなった。これは困った。断るのは簡単だ。しかし僕はラジオリスナーである。春日と若林ならフリートークのネタを探しに行くはずだ。それに人見知りを克服しなければならない。嫌なことから逃げてばかりではよくない。

 ある予定が近づくと、今やるべきことに身が入らなくなる。それが緊張する予定だったり、嫌な予定の時はなおさらそうだ。どうしたってその予定はやってくる。仕方はないと諦めて今やるべきことに集中するべきである。そのためにはどうすればよいのか。まずはしっかり予定を立てておくべきであろう。あれもこれもという状態では、自分にとって比重の大きい用事がどうしてもチラついてしまう。そういう時は淡々とタスクをこなしていくのがよい。よって単純作業や受動的にできることがいいのだろう。例えば、メジャースケールの練習をするだとか、映画を見るだとか。みっちり一週間、もしくは一ヶ月の予定を立てよう。

 最近、嫌なことを避けがちだ。バイト先で遊ぼうという企画に参加しなかった。ドレスコーズの志磨遼平は『ゴッホ』という楽曲の中で、「右か左か選ぶ時が来たら 面倒になりそうな方を進め ベイベー」と歌っている。長らくこの歌詞のことを忘れていた。嫌なことは反転して本当はやりたいことなのかもしれない。好きと嫌いは表裏一体だとよく言う。今、親しくしている二人とも、一時期絶交していた。でもその二人には、自分の思いを一番正直に話せている。いや果たしてそうだろうか。高校のとき、同じ部活だった二人にも正直、もとい心理的な抵抗がなく話すことができている。そうだ。彼らの前で格好つけなくてもいいからだ。よく見られようと思わなくてもいいからだ。すごい人だと思われなくていいからだ。初対面の人の前では格好つけようとしてしまう。高校の時は長い間、半ば強制されて同じ時間を過ごした。今思えば、随分と恥ずかしいことも言ってきた気がする。言い換えればそれは信頼だろう。

 時間が重要なのかもしれない。昨日の日記で、一度しか、一瞬しか合わない人に恥ずかしい姿を見られるのが嫌だ、という話をした。それはむしろ、一瞬で一回きりだからなのかもしれない。その人の中で、僕の姿は恥ずかしい姿それだけになってしまう。人間だから恥ずかしいところも、格好いいところもある。長い付き合いの友人にはそれを見せてきたし、僕も見てきた。いいところも嫌なところも、格好いいところも格好悪いところも知っている、それが深い関係だろう。

 とはいえ、恥ずかしいという気持ちが起こる原因はそれだけでないとは思う。恥というのは複雑だ。ダサいと思われたくない。馬鹿だと思われたくない。すごいと思われたい。でも僕のダサいところを知っている人、すごくないと知っている人とは仲良くなれるのだ。むしろずっとすごいと思われている方が困難だ。もっともわかりやすい例が家族だろう。そそう思われてもいい人とは緊張せずに話せるのだ。そう考えるとキムタクは大変だ。ずっとキムタクを演じなければならない。人見知りをするというのは、自分をキムタクだと思っているということだ。もっともわかりやすい例が家族だろう。そんなことにすら今まで気づいていなかったのか。ひとまずそれがわかった。

 そうか。だから比企ヶ谷は誰とも対等に話せるのだ。よく見られようとしていないから。大泉洋もそうだ。全国にトイレで苦しんでいる姿を公開されている。一周、いや何周もした格好よさだ。恥を受け入れるということを彼は教えてくれていたのだ。

 振り返ってみると僕にもそんな経験はあった。バスの中でお腹が痛いと叫んだ後、クラスメイトと仲良くなった。サイファーをしている瞬間は必死で、恥なんか気にしている場合ではないから、正直に思ったことが言える。むしろ恥が入るとダサくなってしまう。失敗してもいいのだ。ここ最近、失敗を恐れすぎている。

 いつから僕は人と関わるのが苦手になったのだろう。こんな自意識の問題はさっさとどうにかするべきだ。中学生の時は割とうまく人と関われていたと思う。誰とでも対等に話せていた、と思う。学年で一番可愛いと言われている人ともヤンキーとも、むしろ避けられているような人とも。小学校からの長い付き合いがあったからというのも一因だろう。それとは別に、自分に自信があったからかもしれない。成績がいいという自信。ピアノが弾けるという自信。しょうもない。しかし今振り返るとそれにあったのではないかと思う。だって高校に入ると一気に人見知りになったから。なぜか女子と話すときに敬語になった。別にタメ口でいいのに。謎だ。それがモテると思っていたのだろう。部室では、男女気にせず、先輩後輩気にせずに話せていた。でも、顧問とはうまく話せなかった。教員と話すのが苦手だった。なぜだろうか。怒られるのが嫌だから?父との関係のようなものかもしれない。これは今すぐにはわからない。やはり"親"との関係だ。それを超えなければ。

 ここからはいくつか断片的に思いついていることを書く。ここまでもだいたいそうだが、まだ日記といえど、構成は気にしながら書いていた。

 中学校時代の友人のtwitterを見てしまった。問題はもっと複雑だ。地元の知人たちが集まってBBQをしている。集合写真を撮っている。あの輪の中に入れる自信がない。一緒に写真を撮れる自信がない。場違いだと思ってしまいそうだ。まずどんなポーズで写ればいいのかわからない。いや、写真をよく見てみるとだいたいピースだ。案外大丈夫そうな気がしてきた。いろんな集合写真を見まくろうと思う。いやその考え自体が間違っている。でも多分検索する。そんなポーズとかするんだって思われたくない。いや何が悪い、と思えなければいけない。そう思うやつの方が悪い。そして全員筋肉がすごい。すごい鍛えてそう。身体的に劣っていると感じてしまう。相手が自分のことを馬鹿にしているんじゃないかと、下に見ているんじゃないかとすぐ思ってしまうのだ。そう思う相手が単純に悪い。アドラーを持ち出すまでもなく。そう思ってしまうということは、自分にそういう審査基準があるということだ。ダサいだとか、筋肉がどうだとか、頭がいいだとか。自分より下だと思える人とは話せている、ということかもしれない。それはよくない。非常によくない。ヤンキー(便宜上)の彼らはそんなこと全く気にしていないと思う。気にしているのかもしれないけれど、そんなこと微塵も感じさせない。むしろ相手がその審査をしているなということに敏感なのかもしれない。いきなり気にしないのは無理かもしれない。でもまずはそういう自分を自覚しなければ。単純にナルシストなのだ。格好つけるべきときに格好つけてられればそれで十分だ。相手が思う自分を演出しなくていい。キムタクになるな。星野源もそれで苦しんだのだ。そうだった。

 インターネットの影響が大きいのではないか。ほぼ毎日SNSを使っている。僕がスマホを手にし始めた時中学一年生の時から高校3年生まで、つまり思春期にずっと2chまとめサイトを見ていた。匿名の彼らの集合体の無意識が僕の思考回路にインストールされているのではないか。最近はめっきり見ることは無くなったけれど。最近はtwitterだ。twitterのアカウントたちの集合体の無意識もインストールされている気がする。そして彼らの頭には2chの… 人と奇を衒わずに接すること、それはその無意識たちをアンインストールするということだ。現代人、現代っ子の病だ。僕は医者になりたかった。自分が罹患してどうする。中学校のあの時のヤンキー(しつこいようだけれど便宜上そう呼ぶ)たちのように、伊坂幸太郎の小説の登場人物たちのように、あらゆる僕の好きな映画や小説、アニメ、ドラマの彼らのように。どうせインストールするならそちらだ。もちろん彼らになろうとしてはダメだ。でも彼らの姿勢を学ぶことはいい。

ほんの一瞬の恥なのに

2019/04/06 午前3時記す

 眠い。この時間に眠くなるのは久しぶりだ。新学期も始まるので徐々に生活リズムを戻していきたい。と言ってもあと二日しかないけれど。
 
 今日はやりたかったことの半分も消化できなかった。しかし、これまでやろうやろうとしてやってこなかったものをいくつかやれた。まずは筋トレ。特に腕立て伏せ。案外できるものだ。公園で懸垂もやってみようと思ったけれど、立ち話をしている二人組がおり、恥ずかしさからできなかった。ぶら下がり健康器を買おうと思った。

 なぜそこまで恥を気にしてしまうのだろう。きっと彼らにはもう二度と会うことはない。一瞬だけの恥である。しかし気になってしまうのだ。先日、TBSラジオの夕方の新番組ActionでDJ松永が、駅の改札でICカードのチャージがなくなったことがバレるのが嫌だから現金を使う、という話をしていた。すごくよくわかる。僕もバスに乗るとき、残金があるのか不安な時は現金で支払う。運転手にチャージしてもらえばいいだけなのに。なぜ嫌なのか。まず、運転手に話しかけるのが嫌だ。信号で止まっていてもバスはいつ発進するのかわからない。運転手には運転に集中してもらいたい。何かしら手間取って一旦保留して運転になるのも嫌だ。宙ぶらりんな感じがして嫌だ。ものの数分から数十分のことなのに。1日も、いや、数分もすれば忘れてしまうことなのに。なぜそれが嫌だと思うのか。つくづく不思議である。

 今日はランニングもした。久しぶりに走った。二キロ程度で息が上がった。1キロあたり7分ぐらいかかった、遅すぎる。毎日走ろう。体力をつけなければ。中学生の頃の方が体力があったように思う。あの頃に負けるのは癪だ。風呂上がりに自分の体の写真を撮ってみた。なんともみすぼらしい体だ。これでも人にスマホを貸せない。いや、そもそも貸せない。

 昼食はひきわり納豆とご飯。納豆は小学校の給食についてくるような子供用の小さいやつ。僕は納豆一粒に対するご飯の割合が大きい。ひきわりだけれど。だから普通のサイズの納豆だとご飯を数回お代わりしなければならない。そんなにご飯を食べたくないので子供用になってしまう。間食にヨーグルトとシリアル、牛乳。夕食に無印良品のバターチキンカレー。それほど美味しくはなかった。思っていたバターチキンカレーと違った。よく行くインド料理屋のそれが基準になってしまっているからだろう。ただのレトルトカレーだなと思ってしまった。他にも色々あるようだし、試してみようと思う、一つぐらい気にいるのが見つかるだろう。

 レジで接客をしている店員が可愛かった。照明のせいだろうか。ある程度統一された服装のせいだろうか。無印良品の店員は可愛く見える。人が可愛く見える照明の具合があると思う。例えばしまむらはダメだ。明るすぎる。こんなことばっかり考えてるからダメなのだ。でもそんな自分が好きだからややこしい。