バイトの愚痴、そして実存

2019/04/14 午前3時記す

 昼間はバイト、帰宅後は部屋の片付けをした。昼食は、吉野家豚丼。素直に牛丼にしておけばよかったと後悔。部屋を片付けると、少しだけ前向きな気持ちになる。精神が荒んでいるときは、得てして部屋も汚くなるものだ。

 塾講師のバイトをしている。運営がかなりバイトの大学生に任されているという状況である。例えば、生徒へのガイダンスのパワーポイントやアンケート作りなど。正社員が三人いるが二人は新卒で入社したばかりでまだ戦力にはならない。僕は、バイト先の方針に違和感を抱いている。生徒を数値で見ているような気がしてならない。それに、せいぜい大学生が、運営の大部分を担うことで、何か大きなことをしていると勘違いをしているように思う。
 他の校舎と成績を比較して何になるというのだろう。他の校舎よりも全体としての成績が良かったとして、はたして生徒は喜ぶだろうか。いや、喜ぶのは職員と勘違いをしているアルバイトだけである。パソコンばかり見て、今、目の前にいる生徒とは話さない。それでいいのだろうか。わからない。それが社会に出るということなのだろうか。それが折り合いをつけていくということなのだろうか。生徒数があまりに多いため、すべての生徒と深く関わることには無理がある。しかし、それにしても僕はごく少数の生徒としか関わっていない。これは僕の課題だ。

 僕にできることは何か。僕がしなければならないことは何か。いくつか挙げてみよう。勉強するとはどういうことかを教えること。勉強が楽しいと教えること。対してただの受験勉強はつまらないと教えること。学問に対する態度を教えること。受験勉強には競争の側面があるように思えるが、本当の勉強はそうではないと教えること。大学生の勉強はもっと楽しく、面白いのだと教えること。そしてその面白さに自分で気づかせること。少しでも多くの選択肢を見つけ出してあげること。生徒を金づるにしないこと。すなわち拝金主義から引き離すこと。選択する権利はあなたが持っているのだと伝えること。すなわち塾と生徒は対等な関係だと伝えること。たくさん本を読めと、たくさん映画を見ろと、あらゆる文化に触れてくれと伝えること。

 これらは塾にとって利益を生み出さないと思う。非効率であるし、単純に収益が少なくなる。その態度は疎まれるかもしれない。それでもなぜ僕はそこでのアルバイトを辞めないのか。それは、ほんの数人の親しい生徒のためだ。そしてかつての自分のためだ。勉強は楽しいと教えて欲しかった。もっと声をかけてくれるお節介な先生がいれば、何か変わっていたのかもしれない。最近たるんでないかと叱って欲しかった。当然、だらしなかった僕が悪いのだ。それは間違いない。でもなあ、と思ってしまう。あの時の、何もしていないくせに、人を下に見ている高校生だった自分の幽霊にずっと囚われているのだ。

 僕が言ったことが、彼らの人生を変えるというのはあまりにも尊大だ。ただ、あの頃の自分がかけて欲しかった言葉をかけること。それで一つぐらいは並行世界の選択肢が増えるのではないか。それぐらいは思っていいのではないだろうか。それは僕がよく、お節介な先生がいた並行世界の自分のことを想像するからだ。でもそんな僕は存在しない。

 稼ぎの悪いアルバイトを辞めないのは、きっとそういう実存的な理由からだ。それでいいのか、つまり公私混同でもいいのか、もっとよく考えなければ。