令和とヤンキー

2019/04/05 午前2時記す

 昨日は途中で前髪が気になりすぎて書くのをやめてしまった。情けない。どんな髪型にしたいのかがまだ決まっていない段階で美容室に行くべきではない。だいたい今の美容室をそんなに気に入っていないのに、三年ほど通っている。惰性だ。いい加減、別の美容室を探すべきである。元号が変わるぐらいに行こうと思う。

 新たな元号に対してどのような態度をとるべきか。気にしない、のは無理である。気にしないふりをすることほどダサいことはない。元号をネタにするのも嫌だ。率直な感想を述べるのがやはり一番いいと思う。奇抜なことを言おうと無理をしなくてもいいのだ。ついそうなりがちだ。あらゆることに対して。それはだいたいバレている。無理をするところを見極めるというのは本当に難しい。そのマニュアルというかフローチャートがあればいいのに。そんなものは存在しない。失敗を重ねながら体で覚えていくしかない。

 ヤンキー感があるなと思った。僕はラ行の名前に対してヤンキーを想起する。思いつく限りラ行の知人の名前を挙げてみよう。レイヤ、リョウガ、レイ、リョウ、リョウタ、レイナ、リナ、リコ、リカコ、レナ。10人中8人がヤンキーかギャルである。名前と性格、もとい属性は関係ないとは言い切れないように思う。アト6の中で宇垣さんがビジュアル系バンド感があると言っていた。ヤンキーとビジュアル系、何か近しいものがある。友人のKの話ではオタク界隈にもウケはいいらしい。ヤンキーとオタクは切り離せない。相反するようで実は同じなのだ、ということは斎藤環出会ったり菊地成孔が言っていたような気がする。一度調べてみよう。Creepy Nutsの『どっち』もヤンキーとオタクの歌だ。ドンキとヴィレバンという対立を見つけ出したR指定はさすがだ。もっとこの曲は評価されていいはずだ。ヤンキーとオタクの二項対立を見事に描き出している名曲だ。ヤンキーとオタクのどちらをも見てきた、そしてどちらにも所属できないR指定だからこそのリリックだ。HIPHOPにもヤンキーとオタクが存在しているし、その液状化が起こっているのがHIPHOPだと言えるだろう。PUNPEEなんかはその象徴だ。SIMON JAPがハハノシキュウとのバトルで「俺の方がHIPHOPに対してオタクなんだよ」のような発言をしていたのも何かを象徴している気がする。オタクという言葉の浸透。語源なんかはもはやとっくのとうに忘れられているのだろう。果たしてそれはいいのだろうか。

 オタクが相手の名前を「お宅は…」と呼んだことが起因らしい。もはやそんなオタクは存在しない。名前を呼ぶ際に家を用うちいている点で言えば、「ウチ」と同じだ。「ウチ」という一人称を使うのはだいたいギャルだろう。ここにもオタクとヤンキーの共通点が見出せる。これでQ.E.D.とはならないだろう。なぜオタクは二人称で、ギャルは二人称なのか。大した意味がないのかもしれないけれど。更に言えば、「ウチ」は昔の方が使用されている率は高かったような印象だ。印象があるというからには後日調べなければいけない。オタクが「お宅は…」を使っていた時代と「ウチ」の使用率が高かった時代が一致などしていないだろうか。もしそうだったら面白い。

 元号の話からヤンキー、オタク論になってしまった。そろそろ日記に移ろう。16時ぐらいに起床した。故障していたバイクを取りに3キロほど離れたバイク屋へ歩いて行った。割と遠いと思ってしまった。体力の低下。やはり走るべきだ。店に着くと手の空いている店員がおらず、電話をしている店員に変なアイコンタクトを送ってしまった。「要件があるんですけど、電話は続けてください」というアイコンタクトを送ったつもりだったけれど伝わっただろうか。変な客だと思われた気がする。もっとこう余裕を持って陳列されたバイクを見ていればよかった。そして用件を伝えるのも下手すぎる。まずは結論を述べなければ。

 やはり鍵穴に悪戯されていたらしい。これを理由に引っ越したいと思っている自分がいる。メゾネットタイプの部屋に引っ越したい。DJ松永もハライチの岩井も、Licaxxxもメゾネットタイプだ。ミーハーな僕は簡単に影響される。そしてメゾネットタイプの部屋に住めば何かがうまくいくと思っている。フロイトでいうところの同一視であり投射だ。菊地成孔はフロイドという。どちらが正しいのだろう。

 バイクに乗って帰宅し、ショッピングモールのフードコートへケバブを食べにいく。店員と少し会話をした。どの店員も優しくしてくれる。トルコ人の店長も優しい。フードコートにある店は固有名性をお互いに消してくれる嫌いがあるように思う。チェーン店というのはそういうものだ。でもその店はそうではない気がする。だから好きだ。週に二回以上は通っている。ケバブ丼にレタスとトマトが乗るようになった。いつもは頼まないソースをかけてみた。もっと味わって食べるべきだった。普段との違いをうまく記述できない。コーラをセットで頼んだ。これが非常に美味しい。ジャンクフードはコーラとともに食すべきである。Mサイズが思いの外小さかったので、合間に水を挟んだ。飲みすぎである。いつもそうだ。少し注意しなければ。

 今日の食事はそれだけである。お腹がすいてきた。二食はしっかりと食べたい。スーパーでベーコンとひきわり納豆を買った。キッシュを作りたかったが卵は売り切れていた。野菜は何を買おうか迷ってやめた。食材を使い切ったことがない。一人暮らしの難点だ。今年度はスーパーに行く回数を減らしたい。まとめ買いできるように、そしてうまくその食材の中でやりくりできるようになりたい。そう考えるとこれまで2年間どうしていたのだろう。コンビニと外食を減らすのが今年度の目標だ。

 結局今日は筋トレをしなかった。明日こそは。洗濯物は干した。キッチンの少々の片付けも。
 

#日記

 

ハラスメントとサイヤ人

2019/03/28 午前2時記す

 

   昨日はKと朝まで電話をした。7時ごろに電話を終えて、起きたのは夕方である。そろそろ3月が終わる。朝方の生活に戻さなくてはと思うけれどなかなかうまくいかない。
 

 

 自分が今もやもやと考えていることを書き出してみると良いという話を聞き、僕もやってみた。起きてから数時間、約6000字程をここ最近抱いている違和感一気に書いた。脈絡のない文章だ。しかしながら、問題点が明確になったように思う。いくつかはすぐに改善できそうだ。いくつかはもっと経験をしなければ、勉強をしなければわからないようなことだった。要約を箇条書きしてみる。

 

① スケジュール管理、準備することについて
② 誘うことの暴力性、非対称性について
③ 環境によって人生が規定されること、限界について
④ 芸術によって③を壊すことができるのではないかということ
⑤ 恋、性、そして潔癖症について  
⑥ 価値観を押し付けることについて
⑦ 大人になるということについて

 

 大きく分けるとこの7つである。①はライフハック的な視点から考えていけば、すぐに改善することができそうだ。②も言い方について、メタ的な話をする方法について考えれば割となんとかなりそうである。残りの5つが厄介である。それらについてはもっと深く考えていかなければならない。①以外の6つについて共通するのは、人を傷つけること、自分が傷つくことに対してどう考えていくのかという視点だ。

 

 傷つくことが避けられている風潮があるように思う。例外ではなく僕も。去年散々傷ついた。もういいや、という気分だ。でも、傷つかないと成長できない。瀕死の状態から復帰する時に、サイヤ人は成長する。ベジータには孫悟空の存在が必要なのだ。その逆も然り。紙で指先を切ったぐらいでハラスメントと言われてもおかしくない。SNSが発達したことと、若者がメタファーとしてあらゆることに潔癖になっていることには相互的な関係があると思う。それは、言い換えれば傷つかなくても、十分楽しく生きていけるようになったということだ。好きなものだけを見て。好きな人たちだけと付き合って。

 

 

 容赦無く、遠慮なく、そして無意識に尖った言葉を投げかけてくるおじさんやおばさんは老害と呼ばれていく。彼らが若かった頃はそれは当たり前だったのに。そのことには思いを馳せずに。単純に傷つきました、ハラスメントです、と。それはずっと繰り返されていくだろう。年月が経てば次は我が身だ。そのことに自覚的でないといけない。老害がなぜ老害になったのか、そしていつか自分も老害と呼ばれる日が来るであろうということを。安易に嫌いと言うだけでは、倒しても倒しても次から次に老害は現れる。ではどうすればいいのか、今の僕にはまだわからない。ただ、彼らがどんな時代を生きてきたのかについて例えば映画をみて、音楽を聴いて、話を聞いて、そして本を読み、思いを馳せるだけだ。

 

隣の女子高生の洞察力

2019/03/24 午後11時記す
 

   日付を超える前に日記を書くのは初めてだ。間隔は空いているものの、継続して書いている。前回なにを書いたのか忘れた。

 

 いつ日記を書けばいいのだろうか。やはり寝る直前だろうか。それがいい気がする。しかしつい長く書きすぎてしまう嫌いがある。次の日に早起きしようと思っているのに、そのせいで翌日何もない日は、寝過ごしてしまう。どこに句点を打てばいいのかいまだによくわかっていない。しかし昔に比べて文体というものが少しはわかってきたような気がする。数多くの文体についての本を読んだ。嘘だ。ほんの少しだけ。丸谷才一の本は読んだ。谷崎潤一郎のは買っただけ。山本貴光の本は当時買わなかった。しかし今は読みたいと思っている。今日、今年どんな本を読むのか決めた。菊地成孔東浩紀の全著作を読む。

 

 高校三年生の時、受験勉強をそっちのけにして、伊坂幸太郎の本を全て読んだ。あれはなんだったのだろう。現実逃避といえばそうだ。試験勉強をいざ始める前に片付けをしてしまうような。それとはちょっと違うか。あのときに比べれば時間はある。そうだ。なにをバランスよくやろうとしているのか。僕は一気に集中してやるタイプだ。多分。分散型じゃない。大学生になってから、バランスよくやろうとしている。しかし、それをこえてくるものもあった。海外ドラマとアニメだ。F.R.I.E.N.D.S は一年生の前期期末試験のときに見終えた。一番楽しかった頃だ。当時の彼女との関係も良かったときだ。BigBangTheoryも二年生の後期試験のときに見終えた。俺ガイルもそうだ。グリッドマンも。ゾンビランドサガも。でもなに一つ覚えていない。受け身で見ていたんだろうな。ただ流して見ることができるもの。それじゃダメだ。感想がない。自分の言葉がない。いつもそう。上辺だけ。何回この話をするんだろう。ちゃんと自分の言葉で何かをいえたことはあっただろうか。

 

 一度だけあったような気がする。その時は、観終わった後に、違和感を書き留めていた。そうだ。書くことが重要なのだ。書くと覚えておける。そこから何かを思いつく。全てを頭の中だけで構成できるのは天才だ。友人のKはおそらくその類だろう。Rも多分そうだ。読んできた本の数、くぐり抜けてきた修羅場の数が違う。大して本も読まず、ぬるま湯に浸かってきた僕とは持っている言葉が違うのだ。だから、僕は書く。菊地成孔はネタ帳を持っているとラジオの中で言っていた。今週ラジオでなにを話そうかとメモをしていたらしい。例えば、小田急線に乗っていた女子高生の話を。

 

 twitterで隣の席の女子高生の話がバズることがよくある。それと似たようなものだろう。創作も混じっているのだろうけれど。生まれつき核心をつくのが上手い人種がいる。物事を、本質を見抜く力。天性のものだと僕は思っている。学歴も職業もなにも関係ない。彼女たち、つまり、隣の女子高生たちはそうだ。本当の意味で頭のいい人たちだ。僕はそうではない、と思う。はっきりとそうではない、と言うのもある種のナルシシズムだ。本当はそうではないと思っていることが多い。僕はそうなりたい、のだろうか。

 

 兎にも角にも僕は二人の全著作を読むと決めた。二人とも核心をつくのが上手い。そして何よりも、話が面白い。僕の憧れの大人だ。格好いい。でも完璧じゃない。よく悩んでいる。宮台真司が、感染しろ、と言っていた。格好いい大人に感染しろと。もうそれしかないのだと。感染、つまり病気になれということだ。治るのか、かかりっぱなしなのか。読み終えた後、この日記を見直してほしい。僕はどう変わっているだろうか。

 

 本来、TikTokの広告を見て感じたことを、東京旅行とつなげて書くつもりだった。宣言のようなものをしてしまった。ぜひ、明日はそれについて書きたい。筋トレして走って寝よう。

嫉妬と自慢だけはするな

    2019/03/20 午前3時記す 

    今月、そして今年二度目の東京から帰ってきた。疲労が溜まっているし、眠たい。気怠い。これを書かずに寝てしまいたいけれど、こういう状態の時にこそ書いておくべきだ。そう。書けるときに書く、ということを今回の旅で、いや、ここ最近の日常で学んだことだ。書かないと忘れてしまう。忘れてもなお残ったことを記せばいいというのは嘘だと私は思う。それはそれで真理なのかもしれないけれど。全部覚えていた方がいいに決まっている。もちろん、人は忘れていかないと生きていけないことなんて重々承知だ。別に詩的な意味ではなく、生物学的な意味で。覚えたいことだけ覚えていられればいいのに。天才は凄まじい記憶力を持つという。この通説はきっと事実だ。私はそうではないから、羨ましく思ってしまう。

「嫉妬と自慢だけはするな。嫉妬をすると前から、自慢をすると後ろから刺されるぞ」

 菊地成孔の父が、彼に唯一言い残した言葉だとカーテンコールで喋っていた。ずっと見ていたかったし、聞いていたかった。エロいと感じたのは、そういう触れ込みだったからなのか、前口上と詩のせいか。そうではないと思いたい。それがわからないのが嫌だ。それじゃあ誰かの言葉の受け売りじゃないか。感想を批評を目にしてしまうと、それをまるで自分の言葉であるかのように反復してしまう。それが嫌だ。嫌だと思いながらももうすでに口は動き始めている。例えば高橋源一郎のツイートの「最も寛容なのは音楽を聞いている人間ではないか」という言葉。それに呼応するかのような、演奏していた当人、菊地成孔の「人間の一番健康な状態は音楽を聞いている時」だという言葉。なんの根拠もないけれど、そうなのだろうなと思ってしまう。言ってしまいそうになる。でも、私が使ったとて薄っぺらい。何が言われているのかではなく、誰が言ったのかというのも真理であると、今の私は思っている。今日は真理という言葉をなんども使っている。嫌だな。

 それでもなんとか言葉にしないといけない。何を思ったのかをそのまま。丸谷才一は「文章は気取つて書け」と言っていた。これは忘れても忘れても覚えていることだ。なるほど確かにすらりと必要なときに出てくるものだ。まだ私はその意を汲み取りきれていない。気取つた文章を書くのは苦手だ。しかし気取つた文体にならすることができるのではないか。いや、わからない。文体のことなど私には何もわかっていない。何を思ったのかは素直に、しかし文体は気取つて書けるよう努力してみよう。

 わからないことばかりだった。しかしすごかった。あそこにいる人たちは、どれくらい理解できていたのだろう。いや、理解など必要ないのだろうか。幸福な観客とは。ただよくもわからずに、すごいと思えればそれでいいのか。わかった上で、それでもやはりわからずすごいと思えればいいのか。中途半端なわかった、ではどうか。どれでもいいのだ、というのは偽善ではないか。リズムのこと。ソロに行くタイミング。合図。音の迫力。前日に行った小さなジャズバーと何が違うのか。言語化できるのだろうか。言語化してしまわないほうがいいのだろうか。逡巡している。一つ一つの音の丁寧さ。しかしながら失われない力強さ。書いていて思う。文章は全て後付けだ。あの瞬間しかないのだ。あの瞬間のあの感動を、あの気持ちを再現することなどできないのだ。ましてや人に伝えることなど。実際にその場に行って聞くしかないのだ。それでも私は言葉にしたいと思ってしまう。なぜだろう。言葉の力を、文章の力を信じている。と思うのがただ格好いいと思っているだけなのだ。私は不幸な観客になりたい。

「お前は自ら不幸に飛び込む癖がある」と友人は私に言った。それを真に受けていたたただの中二病だ。それでも、僕はわかってしまう、理解できる、そして言葉にできるという不幸を手に入れた上で、それでもわからないという幸福を手に入れたい。これも受け売りだ。菊地成孔の。玉村豊男の。なんで無条件にそれを信じ、使ってしまうのだろう。多分私は、宗教に引っかかりやすい。

 なぜかって、単純に格好いいからだ。きっとこれはブランドだったり、固有名だったりという問題なのだ。それとなくわかるを、まずははっきりとわかるに。解像度。

 

2019/03/15 午前3時記す

 ここ数日、就寝前になると体調が悪くなって日記が書けなかった。十日ぶりぐらいである。この十日間、何をしていたのだろう。思い出してみる。
 まず、高校数学について説明をした動画を作ってみた。もっと上手くできるだろうと思っていた。声で誰かにバレたくないので、ボイスチェンジャーアプリを使って声を変えてみた。これが気持ち悪い。バレるかもしれないと思っていること自体が気持ち悪い。それはまあいいとして(よくないのだけれど)、違和感がありすぎる。声質というよりも、喋り方を思い切って変えなければならない。躊躇していてはダメである。モノマネの練習をしてみようと思う。これまでも幾度となく日記で書いてきたが、私は中途半端な人間である。
 と、思っていたのだが、それは最近の私は、である。中学生の時の私は最初から最後までやり通す人間であった、ように思う。特に、中学二年の途中までは。それはなぜだったのだろうか。ほぼ徹夜で誰かのために、誰かに見られるために作業をしていた。テスト前に好きな子のために対策プリントを作ってあげたりしていた。自分の実力がわかっていたし、どのくらいの反響があるかもわかっていたということもあるかもしれない。何より、それを見てくれる人がいた。彼らの中では抜群に頭がよかった。それはただ塾に行けたからだ。ピアノが弾けた。それは習わせてくれていたからだ。何も自分の力ではない。それを自分で獲得したものであるかのように、誇示していただけに過ぎない。学年を超えれば同程度の学力の人は同じ中学校にもいた。その事実からは目をそらしていたか、気づいていなかっただけだ。塾に行けば、自分よりも賢い人はたくさんいた。それなりの勉強でも、それなりに有名な私立高校に受かった。だからなんだ。全力を出していなかったと思う。本気で勉強をしていなかった。それでも英語がまあまあできたから、自分のプライドは保てていた。高校に入学して、そのプライドは崩される。
 塾に行っていないのに、自分よりも賢い人がゴロゴロいるのだ。勉強しなくなった。高校入試の時に蓄えた英語の貯金だけで、高校でもいいクラスには行けた。理系教科の勉強には、ほとんどついていけてなかったと思う。志望校にも受からなかった。何をしていたんだろう。YouTubeと2chのまとめサイトばかり見ていたと思う。そうだ、部活だ。頑張れば、成果が出るような部活だった。それなりに強くなれた。でもそれなりだ。いつだって私は基礎を徹底しない。なんとなくの、雰囲気だけの理論や応用に逃げるのだ。それっぽいことを言っているだけ、学んでいるだけ。それっぽさだけを身につけるのは得意である。基礎体力があれば、最後のあの試合で負けることもなかっただろう。なぜか泣けなかった。それは最後まで全力でやりきったという思いがなかったからであろう。中学の時の部活も、振り返ればそのようなものだ。いつだってやりきったという思いがない。それにもかかわらず、万能感を得ることができていたのだ。裸の王様だ。私のことを裸の王様だと、イカサマだと指摘してくれたのが、MとRだ。私を裸の王様にしたのは、KとTだ。した、とあるが彼らの責任ではなく私の責任だ。きっかけとした方が正しいのかもしれない。
 イカサマではなく、本物の力をつけたい。本物が欲しいと言ったのは誰だったか。体力をつけろと言ったのは誰だったか。

 なんて過去を振り返ると、少し硬い文章になってしまう。過去を振り返って否定する自分に酔っているんじゃなかと、自分に釘を刺し続けなければならない。それに、また釘をさす自分が…とメタな構造でこれは永遠に続く。いつ終わるのか。再帰性について考えなければならない。とは書くものの結局は書いてそれで終わりである。またメタなことを言っている。再帰的に考えることができるのが人間だ、みたいな文章を最近読んだ気がする。読んだことを思い出す力、まとめる力がない。その力もつけたい。

 『スパイダーバース』を見たり、元カノと幼馴染が混ざったような夢を見たり、久しぶりに恋をしているのかもしれない、と色々なことがあった。が、もう1500字を越えている。そろそろ寝よう。エクリチュール、という言葉の意味がいまいちわかっていないけれど、とりあえず、書きながら考えるということを今年はやっていこう、なるべく、毎日文章を書こう。

2019/03/07 午前2時記す

 キーボードが汚い。手垢がひどい気がする。人のパソコンのキーボードを注視した事がない。キーボードやスマホの画面は便器の数倍汚いとよく言われる。盛ってる気がするが、汚いのは事実だろう。どのくらいの人が日常的に掃除しているのだろうか。気になる。

 今日は昼過ぎに起きた。もう少し早く起きる予定だったけれど、長旅の疲れが溜まっていたのだろう。結局、洗い物をせずに家を出てしまった。布団は畳んだ。まず洗い物や掃除をしてから寝るべきだし、朝起きたら一番にするべきだ。『クレヨンしんちゃん』のどの映画だったか忘れたけれど、みさえの朝を早送りで描いたものがあった。今度からそれを思い出しながら朝を過ごそうと思う。コンビニに行って昼食に練乳の入ったパンを買った。朝から甘いものは避けるべきである。食べる寸前までは、体内で何かが盛り上がっていたけれど、いざ口に入れるとなぜ買ったのだろうという気分になった。夕ご飯のラーメンもそうだった。朝はシリアルで十分だ。牛乳を買わないと。野菜室のキャベツも放置している。そろそろ腐り始めているのではなかろうか。

 電車の中で、『試験に出る哲学』を読んだ。あと1章で読み終わる。面白い。地理選択だったから倫理には触れてこなかった。倫理選択にしておけばよかった。どこかで耳にし、断片的にし知っていた人物や用語が、読むにつれ体系的に頭の中でまとめられていく。例えば、ヘーゲル弁証法やカントの定言命法など。簡潔明瞭に書かれていて、要旨がスッと頭の中に入っていく。時間の流れに沿って紹介されているのがまたいい。世界史の教科書を見ながら、自分なりの年表を作ればより理解が深まると思う。この本をきっかけにして、哲学について学んでいきたい。iPhoneEvernoteにメモを取りながら読んでみた。これなら電車の中でもできそうだ。いつも本を読みっぱなしにしてしまう。今年は読んだ本の感想を書きたい。急ぎつつも、焦らず読書したい。読む本のリストを書き出して、ノルマを決めなければ。

 バイトから帰宅して、菊地成孔の音楽文法とアナリーゼの動画を見た。音楽文法について、一応、ドレミぐらいはわかっているつもりだったけれど、基本の基本から勉強し直すのも悪くない。Aから始まるとマイナー、という話を聞いてそう思った。逆に、なぜ今まで疑問を抱いていなかったのか。当たり前すぎて、意識していないことがあるのだ。アナリーゼも面白かった。難しいけれど、理解できていないところがあるけれど面白い、気がしているだけではないと思いたい。小説単位での好き嫌いを考えたことはない。ある部分、イントロだけを分析したこともない。もっと集中して音楽を聴こうと思った。耳コピはできて当たり前のようである。そこまでたどり着くのにどれだけかかるだろう。この日記はその記録でもある。いつか、耳コピができるようになった、と書ける日が来るといい。