ハラスメントとサイヤ人

2019/03/28 午前2時記す

 

   昨日はKと朝まで電話をした。7時ごろに電話を終えて、起きたのは夕方である。そろそろ3月が終わる。朝方の生活に戻さなくてはと思うけれどなかなかうまくいかない。
 

 

 自分が今もやもやと考えていることを書き出してみると良いという話を聞き、僕もやってみた。起きてから数時間、約6000字程をここ最近抱いている違和感一気に書いた。脈絡のない文章だ。しかしながら、問題点が明確になったように思う。いくつかはすぐに改善できそうだ。いくつかはもっと経験をしなければ、勉強をしなければわからないようなことだった。要約を箇条書きしてみる。

 

① スケジュール管理、準備することについて
② 誘うことの暴力性、非対称性について
③ 環境によって人生が規定されること、限界について
④ 芸術によって③を壊すことができるのではないかということ
⑤ 恋、性、そして潔癖症について  
⑥ 価値観を押し付けることについて
⑦ 大人になるということについて

 

 大きく分けるとこの7つである。①はライフハック的な視点から考えていけば、すぐに改善することができそうだ。②も言い方について、メタ的な話をする方法について考えれば割となんとかなりそうである。残りの5つが厄介である。それらについてはもっと深く考えていかなければならない。①以外の6つについて共通するのは、人を傷つけること、自分が傷つくことに対してどう考えていくのかという視点だ。

 

 傷つくことが避けられている風潮があるように思う。例外ではなく僕も。去年散々傷ついた。もういいや、という気分だ。でも、傷つかないと成長できない。瀕死の状態から復帰する時に、サイヤ人は成長する。ベジータには孫悟空の存在が必要なのだ。その逆も然り。紙で指先を切ったぐらいでハラスメントと言われてもおかしくない。SNSが発達したことと、若者がメタファーとしてあらゆることに潔癖になっていることには相互的な関係があると思う。それは、言い換えれば傷つかなくても、十分楽しく生きていけるようになったということだ。好きなものだけを見て。好きな人たちだけと付き合って。

 

 

 容赦無く、遠慮なく、そして無意識に尖った言葉を投げかけてくるおじさんやおばさんは老害と呼ばれていく。彼らが若かった頃はそれは当たり前だったのに。そのことには思いを馳せずに。単純に傷つきました、ハラスメントです、と。それはずっと繰り返されていくだろう。年月が経てば次は我が身だ。そのことに自覚的でないといけない。老害がなぜ老害になったのか、そしていつか自分も老害と呼ばれる日が来るであろうということを。安易に嫌いと言うだけでは、倒しても倒しても次から次に老害は現れる。ではどうすればいいのか、今の僕にはまだわからない。ただ、彼らがどんな時代を生きてきたのかについて例えば映画をみて、音楽を聴いて、話を聞いて、そして本を読み、思いを馳せるだけだ。